LINE Payの「春の超Payトク祭」がすごいお得な件!

おはようございます。こんにちは。こんばんは!
メンサーのチャイスケです!

 

今回はお得情報をお届けします!
めんどうな作業もなく、確実にキャッシュバックがあるので是非!

 

少し前にPayPay祭りで盛り上がったキャッシュレス決済界隈ですが、
3月15日(金)、明後日から個人的にオススメの「LINEPay祭り」です!

詳細は以下を確認ください!

 

LINEPayの春の超Payトク祭の概要

・毎回20%還元(上限5000円相当)
・その場で、最大2000円相当が当たるくじがもらえる
・LINE Payカードでの支払いも対象
∟JCB加盟店で使えるのでほぼ全てのお店で使えます
・期間は3/15(金)0:00~3/31(日)23:59まで

※詳細は、上述のツイートを確認ください。

 

LINE Payがオススメな理由

・飲み会での割り勘が簡単!

LINE Payを使い始めてから、飲み会の清算がめちゃくちゃスムーズになりました。
ただ、参加者がLINE Payをやっていないとダメですがw

・LINEには「マイカード」という機能もあり、ポイントカードを持ち運ぶ必要がない

コンビニなどで買い物する時は、LINEのマイカードでポイントカードを読み取ってもらい、そのままLINE Payで支払いをしています。

ちょっと買い物に出かけるのにスマホ一つで良いのは画期的!
今まではポイント貯めるために財布も持っていっていました。

 

キャンペーンは明後日3/15からです!

是非みなさんお使いください。
みんながLINE Pay使うと飲み会の清算が楽になり助かります!笑

 

お読みいただきありがとうございました!

ではでは!

子育ての方が仕事よりも大変だし難しい。ってのは考え直そうぜ

おはようございます。こんにちは。こんばんは!
メンサーのチャイスケです!

 

たまに、

子育ての方が仕事よりも何倍も大変で難しい

ということを言っている人がいる。

子育てが難しいのはわかるし、大変なのもわかる。
ただ、仕事も難しいし大変だよ。

ってことを書こうと思う。

 

確かに、子育ては大変だし難しいよね

ここでは主に乳幼児期の子育てについて考える。

先程の、
子育ての方が仕事よりも何倍も大変で難しい、
と言っている人の意見としては、

子育ては年中無休の二十四時間体制であるし、
すぐ泣くし、論理的に説明すればよいというものでもない。

といった感じである。

確かに、そういった意味でめちゃくちゃ大変だし難しいものであるのは想像に難くない。

し、実際にそうなのであろう。

 

仕事は大変じゃないし難しくもない?!

ここでは、”一般的なサラリーマン”について考えよう。

確かに”一般的なサラリーマン”は、有給休暇を年に20日くらい取ることができる。

そして、
会社という組織で働いている以上、仕事はある程度はマニュアル化されていて基本的には代えが効く存在である。
つまり、その人でなくてもできる(≒難しくない)仕事をしていると言えるかもしれない。

※人によっては代替不可な存在の人もいるが、そういう人はここでいう”一般的なサラリーマン”では想定していない。

上述のように考えると、

仕事はそこまで大変でもないし、そこまで難しくもないように思えなくもない。

 

子育てと仕事を比較してみよう

さて、そこで、子育てと仕事の比較という話である。

そもそも子育てと仕事を比較してどちらが大変か?難しいか?を議論するのがナンセンスという話はあるだろう。私もそう思う。

まあ、とは言っても仕事と子育てを比較するというナンセンスな主旨で書き始めた記事なので、頑張って書いていく。

 

ここで取り上げるのは、以下の一点の観点のみである。

それは、

PDCAを回しやすいかどうか

(子育ては年中無休二十四時間体制である。とか、そういった話は取り上げない。)

 

では、

「PDCAを回しやすいかどうか」

とはどういうことだろうか。

 

PDCAを回すとは、以下の4つのサイクルを回すことである。

Plan(計画)・Do(実行)・Check(評価)・Action(改善)

 

そして、
PDCAを回しやすいための大きな条件は以下である。

・変数が少ない(計画・仮説が立てやすい&改善がしやすい)
・結果の可視度が高い(評価&改善がしやすい)

それぞれみていこう。

変数

変数が多いほどPDCAを回す難易度はあがる。

例えば、学校の定期テストのような勉強は変数が少ない。
ただ決まった範囲の勉強をしていればある程度の結果を得ることができる。

テストと比べるとスポーツ(特にチームスポーツや、対人スポーツ)の方が変数が多いことはわかるだろう。

勉強は自分ひとりでシコシコ勉強したら努力の量に比例して成績は上がる。

ただ、スポーツにおいては個人の身体能力や技量を上げることがそのまま成果に繋がるわけではない。
チームスポーツであればチームメイトとの連携を考えないといけないし、対人スポーツであれば相手によって戦略を変えないといけない。

また、練習では強いが試合に弱い人がいることからもわかるように、試合勘のようなものも必要になる。

 

変数が多く、PDCAを回す難易度の高さでいえば、

(勉強 <) 仕事 < 子育て

であろう。

 

結果の可視度

Do(実行)に対しての結果がわかりやすいにくいほど、
PDCAを回す難易度はあがる。

そして、
結果の可視度が低く、PDCAを回す難易度の高さでいえば、

仕事 < 子育て

となるのは感覚的にもわかるだろう。

 

子どもとの接触一つ一つが子どもの成長にどう影響しているかを正確に捉えるのは難しい。

五感を使った様々な接触の組み合わせで子どもは成長していくし、
その成長の結果はすぐにわかることばかりではない。

 

・・・ここまで述べてきたことを振り返ると、

「やっぱり子育ての方が断然難しいじゃん!」

ということになる。

 

確かにそういうことになるかもしれない。

 

けど、よく考えてみてほしい。

仕事よりも変数が多く、更に結果もわかりにくい子育てにおいて、
正解などあるのだろうか?

将来の世界がわからない以上、
数年、十数年を見越さないといけない子育てに正解があるとは思えないし、
正解があるとしても正解は変わっていく。

例えば、
昔は良い大学に行って、有名な会社にいくことが正解とされていたが、
最近では正解とは言えないだろう。

実際に何が正解かはわからないが、
正解とされているものが変わることは確実だ。

 

また、
親の子への影響力が大きいとはいっても、

乳幼児期を終えて小学生以上になってくると、
親との時間よりも小学校などそれ以外で過ごす時間の方が長くなってくる。

そして、小学校は私立に通わせるとかしない限り、基本的に選択肢はない。

要は、
親が関われる変数はかなり小さくなってくるのだ。

 

まとめると、こんな感じである。

子育ては変数がめちゃくちゃ多い。

そして、親が関われる変数は以外と多くはない。

子育ての結果がわかるのは数年、十数年後になる。

(数年後、十数年後の世界を予想することはできないため、)
子育てをしている時の正解(とされているもの)が数年、十数年後の正解(とされているもの)とは限らない。

というか、子育てにはそもそも正解はない。

 

以上を踏まえた時に、

子育ては、
今この時の子どもとの関わりを信念を持って必死にやるしかない

のだと思う。

 

もしそうであるならば、
子育ては難しいし大変ではあるが、

直近の結果に対しての責任を追及されるというストレスは比較的少ない

だろう。

※注釈
直近の結果に対しての責任を追及される云々に関しては、
パートナーからや、社会からのプレッシャーみたいなものはあるかもしれない。
パートナーについては、そうならないような良い関係性を築いてくださいとしか言いようがない。
社会からのプレッシャーについては、大抵批判してくる人はバカなので無視すればよいだろう。

 

それに比べて仕事というのは、
直近の成果に対して(悪い場合には)追及される。

もちろん、そうやってPDCAを回していくことは成長のためにも必要である。

しかし、
仕事においても変数は相当数あるため、
常に正解を出し続けることはできない。
(そもそも、仕事においても明確な正解はないだろう。)

こういう状況の中で、
直近の成果に対する責任というプレッシャーに常に晒されているサラリーマンは、
そういう意味でのストレスがかなりかかっている。

そして、
PDCAをかけ続けなければいけないプレッシャーにも晒されている。

・・・サラリーマンも大変なのである。

 

要は、
PDCAが回しやすいかどうか、という観点から捉えた時に、

仕事の方がPDCAを回しやすいという性質上、
逆に(逆ではないかもしれないが)仕事の方がプレッシャーやストレスがかかっている。

ということである。

 

最後に

まあ、一番伝えたいことは特別なことではなく、

子育ても仕事も大変だから、お互いを尊重しながらやっていこうぜ。

ということだ。

冒頭でも述べたように、
子育てと仕事を比較するのはナンセンスなので、そういうのもやめようぜ。

って思っている。

 

お読みいただきありがとうございました!

ではでは!

子どもがまだいない人こそ、子育てのPDCAを回そう@学童保育

おはようございます。こんにちは。こんばんは!
メンサーのチャイスケです!

 

実は、半年間ほど、学童保育のお仕事をしていた時期がありました。

元々は広告代理店で働いていた私が、
何を考えて学童保育でお仕事をしたのか。
そしてそこから学んだことなどを書こうと思います。

 

学童保育で働き始めた理由

簡単に言うと以下の2点です。

①自分の子育てを見据えて経験をつんでおきたかった

②小学校の状況を知っておきたかった

それぞれ詳しく説明したいと思います。

 

①自分の子育てを見据えて経験をつんでおきたかった

自分が子育てをする時に備えて、練習しておきたかったということです。

ちなみに、
まだ子どもいないですし、結婚もしていないです笑

 

ただ・・・考えてみてください。

子育てってかなり重要で責任のあることです。

そうにも関わらず、
今まで子育てをしたことがない状態で子育てを始めるって怖くないですか?

少し言い方を変えると、
子育てのPDCAを回したことがない状態で子育てをするのってなんか無責任な感じがしませんか?

 

突拍子もないことを言っているように聞こえるかもしれませんが、
仕事で考えるとわかりやすいです。

仕事を覚えていくには、
仕事を経験し、PDCAを回していくことが大切です。

そして、重要な案件、重要な仕事においては、
PDCAを何回も回したベテランさんが対応するはずです。

新人さんがいきなり重要な仕事を任されることはほぼないです。

 

なのにですよ、
重要なことである子育てにおいては未経験の新人さんが行っているのです。

この構図がなんか気持ち悪いですし、しっくりこないのです。

学童保育で働くことにより、
子どもを養護、教育する機会をつんでおきたかったのです。
(そういう意味では学童保育でなくて、保育園とかでもよかったです。)

 

では、
学童保育でお仕事をしてどんな学びがあったかと言いますと、、、

子どもを扱うのが上手な先生がいて勉強になりましたし、

子どもによって発育・発達のスピードが違うことを実感できたり、
支援を受けている子どもの存在や実態を体感できたりしたため、自分の子どもがちゃんと成長しているかどうか必要以上に気にすることがなくなったのではないかと思います。

 

②小学校の状況を知っておきたかった

私は、現状の”一般的な”小学校の教育が好きではないです。

横並び教育な感じとか、

型を押し付けるような感じとか、

仕組みや考えが時代遅れなところとかとか・・・

そのため、
できることならば自分の子どもには”一般的な”小学校に行かせたくないなぁ、
という思いがありました。
(例えば、オルタナティブスクールやサドベリースクールに行くほうがいいと考えてます。)

ただ、
小学校教育の現場にいって確認したわけではなかったので、
実際に確認したいな、

ということです。

 

では、実際に学童保育で働いてみた後に思うところとしては、

やっぱりできれば”一般的な”小学校には行かせたくないな。

です。

まあ要は、だいたい想像通りな感じでした。。。

 

働いてみた感想

記事の本題とは逸れますが、、

働いた感想としては、
とても楽しかったですし、なんか充実した時間でした。

なんていうか、「教育の魔力」を垣間見ることができました笑

 

小学生1年生なんかだと、
半年も経つと顔付きは全然変わってきます。

辞める間際に半年前の写真とかを振り返ると、
子どもの成長を感じてとても嬉しくなります。

 

また、子どもたちと一緒に遊んだりもするので、

お仕事を辞める時に何人かの子どもがギャン泣きしてしがみついてきたりとか、

お手紙やプレゼントをたくさんもらって、、、

それがもう、かわいくて、かわいくてっ!

 

これが子どもと関わる仕事の魔力であり、幸せに感じる瞬間なんだな、
と感じました。

 

まとめ

ということで、
子育て未経験の人は機会があれば働いてみると面白いです。

機会がそんなにはないと思いますがw

 

・・・と、ここまで書いておいてですが、

結局、今思っていることは・・・

実際に子育てしてみないとわかんね。

ということです。

 

もちろん、子どもとの接し方のヒントを得たりとか、
小学校の雰囲気などを感じることはできました。

そしてそれはとても有益だったと思います。

ただ、実際に自分が子育てをする時には、
一人の子どもとしてミクロな視点で子どもと接しないといけないですし、
小学校の状況も現在とは違うでしょう。

そのため、
結局は実際に子育てをするタイミングになったら
その時にまた必死に考えて、必死に対応しようと思います笑

 

お読みいただきありがとうございました!

ではでは!

剣道の「道」とは?

おはようございます。こんにちは。こんばんは!

メンサーのチャイスケです!

 

今回も剣道についてです。

剣道はよく「道」と言われます。

全日本剣道連盟が正式に掲げている理念でも、

剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である

とされています。

参考①
参考②
参考③

その理念から出てくる考え方として、
剣道は人間形成の道であるから、試合の勝ち負けが全てではない。

もう少し極論ぽく言うと、
試合の勝ち負けは重要ではない。

という言われ方をされることがあります。

 

今までの私のブログでは、
さんざん試合の審判について批判してきました。

ただ、
人間形成の道であることが前提であり、最優先事項と考えるのであれば、
試合の優先度は下がり、その結果、審判の正確度の優先度も下がります。

つまり、

剣道を、明確に人間形成の道として捉えるのであれば、
審判の質の優先度は下がるということです。

 

剣道をやる目的が人間形成であるならば、
剣道を教わる中で、最優先に教わること、最重要視されることは、人間形成に関わることになるはずです。

そして実際、
道場でも部活動でも、礼儀を厳しく教わった覚えがある人は多いと思います。
この部分(礼節を学ぶ)については実際の剣道の教えの中でも実践されていることが多い印象です。

 

ただ、礼節以外の人間形成の要素については、
実際の剣道の教育の中でどのように扱われているかがあまりわかっていません。

また、そもそも人間形成の道と言っていますが、
人間形成をするためにはどういったことをすればよいのでしょうか?
どうのような状態であれば人間形成ができていると言えるのでしょうか?

この辺りが個人的にはあまりわかっていないですし、
剣道を習ってきた中、自分自身で考えてきた中で見えていないのです。

これを、私の修行不足と否定することはできるでしょう。
そして、そうやって否定することを否定することはできません。

ただ、私はそこそこは剣道に対して真面目に取り組んできたつもりですし、
剣道に対して思考をしてきたつもりです。

それでも道が見えていないのって結構剣道が難しいのかなって思うのと同時に、
ちゃんとわかっている人ってどのくらいいるんだろう?と純粋に疑問です。

 

「剣の理法の修練による人間形成の道」ということについて、
答えのようなものは現時点では持ち合わせていないですが、

このブログを通して、剣道を捉え直す機会になればいいなと思ってブログを書いている次第であります。

お読みいただきありがとうございました!

ではでは!

男「付き合ってください」女「はい、お願いします」はもうやめたら?【後編】

おはようございます。こんにちは。こんばんは。
メンサーのチャイスケです。

【前編】はこちら


付き合う相手とは共通認識を作ろう

先程言ったように、「付き合う」の定義は曖昧だ。

付き合っていると言っておいてその定義が曖昧な状態であっては、関係がうまくいくとは思えない。

例えば浮気の基準は人によって違うだろう。

にもかかわらず、
多くのカップルは浮気の基準はナイーブな話題として話し合っていないのではないだろうか?

 

人が2人以上集まればそれは一種の社会だ。
社会を円滑に回していくには話し合いが必要だし、場合によってはルールが必要だ。

もちろん、細かいことまで全て話し合う必要はないし、
ルールは多すぎないほうが良いと思う。
ただ、大事なトピックについては話し合いやルール作りが必要だと考える。

(この辺を論理的に説明するのは難しいが、会社とかサークルとかいった組織で、話し合いをしたことがなかったりルールがない組織ってたぶんないだろう。)

 

そこで、付き合う相手とはしっかり話し合いをしたりルールを作ったりして、
自分たちが「付き合っている」ってどういう状態なのか、
や、
お互いにどういった関係を求めているか、

という共通認識を持つことが大切だと思うのだ。

 

・・・ふわっとした話になったが、簡単に言うと、、、

「言語化の文化」の人間になろう的なことである。うん、ちょっと違うかもしれないが。

「無言の文化」と「言語化の文化」については以下のブログを読んでほしい。
(『「無言の文化」と「言語化の文化」の対立』の部分だけ読めばわかるが、記事自体も面白いので時間がある人は是非読んでほしい。宣伝笑)

ぼくは村作りビジネスをやめる。そう決断するにいたった全経緯と教訓について

ぼくは村作りビジネスをやめる。そう決断するにいたった全経緯と教訓について

少し引用しよう。

この世の人間は、二種類に分けられる。「無言の文化」の住人と、「言語化の文化」の住人である。

 

以下、言語化の文化の人↓

  • 誰かに何かをして欲しいときは必ず「◯◯をして欲しい」と伝える

  • 相手が承諾してくれたら◯◯はされるものと認識する。

  • その場合に◯◯されなかった場合は、相手を問い詰めたり責めることもある

  • 伝えそこねていた要望△△については、実行されなくても絶対に怒らない(「普通△△するでしょ!?」とは絶対に言わない)

  • 不確かな相手の要望については確認する(「□□した方がいい?」)

僕のコミュニケーションは、「人間の意思疎通は非常に困難だ」という前提に立っている。誰かの考えや感覚を類推することは生産的ではない、と思っている。また、不機嫌になることや怒りを持つことを最小にしようとしている。

 

↓こちらは無言の文化の人

  • 「相手は当然◯◯してしかるべきだ」と考える(言わない)

  • ◯◯されなかった場合に「なぜ◯◯しないのか?普通そうするのではないか?」と怒る

  • 「相手はきっと望んでいるから、自分は□□しなければならないのだろう」と考える(尋ねない)

  • 自分は必死で□□しているのだから、お前も□□する人間であれ、と無言のうちに要求する

 

仕事中や友達に対しては言語化の文化の住人であっても、
「付き合っている相手」には無言の文化の住人になってしまうことがあるんだと思う。

実際、自分も付き合っている相手には相対的には無言の文化の住人になることが多いように思う。

仕事のように論理が占める領域が少ないこと、
(多くの場合)付き合っている相手は異性であること、
などがあるのでしょうがない部分もあるだろう。

しかし、「付き合う」ということになると、
途端に無言の文化の住人が増えてしまうため、
「付き合う」状態の共通認識がないまま付き合っている人が増える。

そしてその結果、社会一般的にも、「付き合う」という、
ナイーブかつ、ふわっとした定義である概念がはびこり、
多くの人が思考停止でその概念をふわっと使っているように感じる。

この辺りが、
「付き合う」という言葉へ気持ち悪さを感じてしまう要因なのかなと思う。

 

昔は問題が起こらなかった?

もしかしたら昔は「付き合いましょう」⇒「はい」でも問題なかったかもしれない。

多くの国民の共通認識として、

・有名大学に通い、有名企業に入るのが正解
・男は仕事をして、女は家のことをするのが当たり前

などなど、というような均一な価値観があった社会においては、
「付き合う」という定義自体が社会から与えられていた部分が今よりは大きかったと思うし、
また、定義が人によってぶれていなかったのだと思う。

 

最近では、そんな社会も変わってきている。

思考停止で今までのように、
「付き合う」という言葉に男女の関係(男女だけには限らないが)を押し込むのに気持ち悪さを感じている、今日このごろである。

 

お読みいただきありがとうございました。

男「付き合ってください」女「はい、お願いします」はもうやめたら?【前編】

おはようございます。こんにちは。こんばんは。
メンサーのチャイスケです。


気になるあの人とデート。
美味しいディナーを食べて、ロマンチックな夜景を見ている最中。
ふと、会話が途切れて僅かな沈黙が訪れた。。。
「好きです。付き合ってください。」
普段よりも少しダンディな声でそう言われた。
「はい、お願いします。」
今日は最高の夜になった。
そして、これから始まる楽しい生活に心の高鳴りがおさまらない。

 

・・・はいっ。という感じで、、、「付き合う」という言葉は何気なく使っていると思う。

しかし、この「付き合う」という言葉、使うのに昔から少し気持ち悪さというか、モヤモヤすることがあった。

今回はそのことについて書く。

 

付き合う、ってどういう状態?

誰かと付き合っている人は多いと思う。

じゃあ、付き合っているってどういう状態なのか。ちゃんと説明できる人はどのくらいいるのだろう。

「付き合いましょう」⇒「はい」というやりとりが起きたら付き合い始めたということはわかる。また逆に「別れましょう」⇒「はい」というやりとりが起きたら別れることもわかりやすい。

これらは、口頭でのやりとり(契約)によって「付き合う」を定義した場合である。「付き合う」時期の始期と終期は、明確ですごいわかりやすい。
しかし、これだと「付き合う」という状態についての説明はされていない。

例えば、「実質付き合っているよね」とか言うことがある。
こういった言葉を普通に使うということは、多くの人の中で共通認識として「付き合っている状態」があるということだろう。

 

どういう状態を「付き合う」というのか気になり、友達何人かに聞いてみると、
「付き合う」状態がどういった状態かパッと説明できる人はいなかった。

多くの人が、曖昧な定義のまま「付き合う」を使っているのだと思った。

そういうチャイスケも、何気なく「付き合う」という言葉を使うことがある。
「付き合う」を何気なく使う際にどういった意味で使っているか改めて考えてみた。

そうすると、やっぱり難しい・・・

 

いくつか考えたものを簡単に列挙してみよう。

例えば、1つ目としては、婚約(婚姻の約束)の前段階としての状態だ。

婚約は多くの人が知っていると思うが、婚姻を約束した状態だ。
婚姻を約束したのだから、一部については婚姻状態と同じような法律関係が発生する。(正当な理由なく婚約が破棄された場合に損害賠償を請求できたり)

そして、婚約の前段階(婚約の約束的なイメージ)の状態としての「付き合う」と考えると多くの人の認識と近い状態になると考えた。

・婚姻状態時に不倫(浮気)をすると不法行為となる
・婚約状態時に浮気をすると、相手から一方的に婚約破棄をされても何も言えない
・「付き合う」状態時に浮気をすると、周りから非難される。また、別れの原因になる

といった具合に、婚姻⇒婚約⇒「付き合う」となるにつれて、
法的効力がどんどん薄まっているイメージだ。

 

次に、2つ目としては、いつでもセックスができる状態だ。

セックスをすることの合意が取れている状態。くらいの方が正確だろう。

どちらかが拒んでいる時に無理やりセックスをしたらDVとなり得る。ここではそれを許容している主旨ではないことは念のために明記しておく。)

「付き合う」となってからは、
お互いの意思をそこまで気にせずセックスをできるし、
社会的な目も気にせずセックスができる。

というのが、
「付き合った」状態のかなり大きい要素なのかなと思う。

 

3つ目としては、他の人とセックスをしてはいけない状態だ。

1つ目の中に内包されることではあるのだが、
婚約の前段階という中の「他の人とセックスをしてはいけない(浮気はいけない)」という部分にフォーカスした状態と考えていただけると良いだろう。

 

考えた結果としてはそんな感じだった。
あなたはどんな考えだろう?

ふわっとした考えしか持っていない人も多いだろう。

それはそれでいいと思う。というか、正解はないので、それぞれの人が様々な考えを持っていても良いだろう。

・・・長々と書いたが、この章でチャイスケが言いたいことは、

「付き合う」ってどんな状態なんだろう?みんなの共通認識ってあるんだろうか?

という課題提起だ。

 

【後編】に続く

【機械学習】学びメモ:画像処理

おはようございます。こんにちは。こんばんは!
メンサーのチャイスケです!

 

以下の以前のブログでも書いたように、

剣道をアップデートする3つの方法

機械学習(とかプログラミング)の勉強中でございます。

 

せっかくなので、
その学びや、やっていることをメモしていこうと思います。

基本的には記録用に書いていくつもりなので、
見たい人は見て、興味ない人はスルーしてくださいって感じでお願いします!

 

今までやったこと

今まで学習してきたことは主に以下です。

以下の本

ゼロから作るDeep Learning ――Pythonで学ぶディープラーニングの理論と実装

ちなみに、ちゃんとディープラーニングとかやっている人からしてもこの本はオススメらしいので興味ある方は是非

 

paizaというコーディング転職サービスでプログラミングを学ぶ

paiza

 

・あとは、他の人のブログを見ながら色々と試してみたり

例えば、
Twitterの投稿内容を抽出してテキストマイニングしてみたりとか、
画像や動画から骨格検出するソフトを試してみたりとか、です。

 

今回やったこと

今回やったことは、画像処理の機械学習です。

画像に特定の人がいるかいないかを判定するやーつです。

具体的には、

自分が写っているかどうか判定するものと(せっせと自分のあいぽんのカメラフォルダから自分が写っている画像と写っていない画像を探しました)、

ワンピースのルフィが写っているかどうか判定するものを作ってみました。

 

気になる結果は、、、、

、、、、

、、、、

正解率56%!

・・・ということで、学習できていないことがわかりました。

ランダムでも50%になるので、誤差の範囲でしかないですねw

 

コードとかも載せた方が良いのかどうかと迷ったのですがめんどくさいから需要がなさそうなので省略します。
知りたい人がいたらコメントください。コードとその簡単な解説を載せた記事を書くかもです。

 

全然学習できていなかった原因は、
データの質・量だと考えています。

質の問題として、
わかりやすく顔が写っている良さげな画像を集めるのはとても難しいです。

量の問題として、
基本的には手作業で集めたので数に限界があります。
画像に連番の数字をつけたり、ラベリングしたり、画像のサイズを揃えたりと結構大変です。

色々と妥協を積み重ねた結果、
質と量の両方がダメダメとなり、結果もダメダメとなりました。。。

 

感想

とりあえず、調べながら作業すること自体は楽しかったです!笑

・・・ので、良しとします。

 

機械学習ではデータが大事ということはわかっているつもりではありました。

しかし、実際に試してみて、
データを揃えるのが大変で難しいことを身をもって感じることができました。

今回の全然学習できていない機械学習も良い経験だったということで、
ポジティブに捉えていきます。

 

お読みいただきありがとうございました!

ではでは!

小学生の「チンチン」発言から考える、子どもへの正しい「伝え方」

おはようございます。こんにちは。こんばんは!
メンサーのチャイスケです!

 

突然ですが、

子どもって、小学生くらいになると学校で「チンチン」という言葉を覚えたりしますよね笑

その時の大人の対応について、
個人的に気になる点があるので、
そのことについて書いていこうと思います。

※自分の子どもはいないですが、学童保育で働いているので子どもと接する機会は多いです。

はじめに

まず最初に、
チャイスケの子どもに接する時のスタンスを明確にしておきます。

私は、子どもに対して対等な立場で(大人と同じように)接するべきと考えています。

こういう言い方をすると、
「当たり前だ」と思うかもしれません。

ただ、
本当にそうでしょうか?

 

例えば、子どもに対して、
相手が子どもだからと思って嘘をつくことはないでしょうか?

・「どうして●●したらいけないの?」
・「サンタクロースっているの?」
・「僕はどうやって生まれてきたの?」

などの質問への回答でも、
自分にとって不都合な真実はごまかしていたりしないでしょうか?

もちろん、バカ正直に答えることが正しいと言っているわけではないです。
幼い子に対して、子どもができる仕組みなどを細かく説明する必要はないでしょう。

何が言いたいかというと、ただ嘘やごまかしを言うのが悪いのではなく、
相手が子どもだからと、一種の相手を下に見る態度があるとしたら良くないと言いたいわけです。

 

例えばですが、
子どもに対しては禁止していることを、自分はしていたりしないでしょうか?

・ご飯中はおしゃべりしないで食べなさい
⇒大人は会食などもありますし、話しながら食べるのは当たり前ですよね。まあ今どきおしゃべりしないで食べなさい、という教育もないかもしれませんがw

・人の話を聞く時には相手の目を見なさい
⇒自分はパートナーに対してできているでしょうか?また、別に相手の目を見なくてもいいでしょって場面もありますよね。

念のために繰り返しておきますが、
上記のような注意をすること自体が間違っているとは思いません。

ちゃんと対等な立場として注意しているか?しっかり論理的に注意できているか?
ということを言いたいです。

 

もちろん、
子どもと大人では責任能力の差があるので、
子どもの行動に規制をかける必要がある場合はあるでしょう。

しかし、
相手は子どもだから、という気持ちが少しでも入った瞬間に、
子どもと対等な立場で接しているとは言えないのかなと思います。

 

子どもの「チンチン」発言への大人のまずい対応

冒頭にも述べたように、
小学生くらいになると、学校で「チンチン」という言葉を覚えてきたりします。

その時、
ほとんどの大人(親や教師など)は基本的にはやめさせる方向に動くようです。

ただ、
そのやめさせ方が個人的には良くないな、と感じます。

よくある言い方としては、

①:(頭ごなしに)「やめなさい!」
②:「そんなこと言うと恥ずかしいよ」

などです。

①に関して言えば、
大人同士の関係において、
他人の行動に制約をかけようとする際に理由を言わないのはありえないでしょう。
ちゃんと論理的にやめないといけない理由を説明するべきです。

②に関して言えば、
恥ずかしいかどうかは本人の感情のはずなのに、
なぜ周りから言われる筋合いがあるのでしょうか?
子どもは別に恥ずかしいと思っていないから「チンチン」という発言をしているはずです。

 

「チンチン」発言をやめさせる正当な理由はある?

先程あげたような非論理的な理由ではなく、
もっと論理的で納得感がある理由はあるのでしょうか?

もし自分の友だちが「チンチン」と言っていた場合に、その人にどう説得して止めさせるか?

と考えるとわかりやすいと思います。

 

大きくわけると3つの観点から考えることができると考えます。

①社会的な観点
②法律的な観点
③個人的な観点

それぞれ詳しくみていきましょう。

①社会的な観点

“一般的に”チンチンとか、そういったいわゆる下品な言葉は社会的に好ましくない(風紀を乱す)という雰囲気というか、幻想というか、ちゃんとした大人はそういう言葉は使わないという雰囲気のようなものがあります。たぶん。
※今後、この雰囲気を「道徳」と記載します。

そのため、
社会に属するものとしてそういった発言はしない方が良いという雰囲気があります。

これは、
1つの理由として、ある程度の納得性はあるのかなと思います。

とは言え、
この「道徳」は一般社会においてのものなので、
小学校のクラスという狭い社会空間(プライベートに近い空間)においても成り立つかというとそうではない気もします。

というか、
「道徳」を形作っている大人でも、
プライベートでは普通にチンチンとか言いますよねw
・・・少なくともチャイスケの周りでは社会的にはちゃんとしているとされている部類の人でもプライベートでは言っている人います。

 

②法律的な観点

法律的な観点から考えると、

公然わいせつにあたるかどうか、
という話になると思います。
※法律の専門家ではないので、もし違っていたら教えてください

結論だけ言うと、主に以下の点によって該当しないと考えられます。

・学校のクラスという公共性のない場
・発言者が小学生

違法ではないことを前提に、注意するのであれば、

もっと公共性がある場所において、
もっと大人になってから言うと、
違法になるかもしれないから気をつけて

という感じになるでしょう。

もしくは、
法の趣旨を考慮して注意するとすれば、
①の社会的な観点の内容とほぼ同じになります。

 

③個人的な観点

これはわかりやすいですね。

チンチンと聞かされた人が、主観的にマイナスな気分になったかどうかです。

もしマイナスな気分になったのであるならば、
そのことを伝えて、やめてほしい旨を伝えればいいです。

 

まとめ

子どもがチンチンと言っていて、止めさせたい場合、
以下のような理由で言うのが「正しい伝え方」なのかなと考えます。

③に関連して、
自分がマイナスの気分になったら、その旨を伝える。

②に関連して、
法律を知らなそうであるならば、「公然わいせつという法律があるよ」と伝える(噛み砕いて説明)。

①に関連して、
「道徳」を知らなそうであれば、「一般的には社会では言うべきでない言葉となっているよ」と伝える。

 

個人的には(自分が親であれば)、別にチンチンと言われてもマイナスな気分にはなりません。

そのため、
②③のことを伝えた上で(理解するまで何回か伝える必要はあるかもしれません)、
チンチンと言うのを止めないなら別に放置でいいのかなと思います。

普通に育ったら、
大人になっても所構わず「チンチン」と言うことはないでしょう。

ここは大事です。
「チンチン」と言うのを止めなさい、と注意をしなくても、
普通に育ったら、いつでもどこでも「チンチン」と言う大人にはならないです!

 

また、
自分の周りの友人がチンチンと言っている場面を想像してください。
別に自分がマイナスの気分にならない場合は何もアクションしないですよね。

それは、
公共の場でなければチンチンと言っても(法律的、社会的に)問題はないし、
その人が公共の場では言わないことがわかっているからです。

 

最後に

実際に子どもと接していると、
注意する時にどうすれば良いかと悩むことは多いです。

そして子どもは大人の期待する通りにはならないものです。

子どものためにと注意していたはずが、
逆に子どものためと思う気持ちが強くなるあまり、
子どもを強制的に思い通りにしたくなる気持ちもわかります。

しかし、
子どもを強制的に操作するときには、
子どもと対等な立場で接しているとは言えません。

多くの方がすでにしていると思いますが、
ふっと気づいた時に子どもへの接し方を振り返るのは大事です。

その際に、この記事が少しでもお役に立てれば幸いです。

お読みいただきありがとうございました!

ではでは!

小型ドローン飛ばしてみたらまあまあ面白かった、という話

おはようございます。こんにちは。こんばんは!

メンサーのチャイスケです!

突然ですが、ドローンを買ってみました!

でんっ

そして、
実際に飛ばしてみたら予想以上に面白かったので、

流行りのドローンを飛ばしてみたらまあまあ面白かった、

という感じの記事を書きます。

 

商品の説明

ドローンの種類は「ポケット・ドローン JY018」です。

折りたたむとスマホと同じくらいのサイズになります。
ポケットドローンというだけあってほんとに手軽に持ち運びが可能なドローンです。

重量が200gよりも軽い小型ドローンなため、
仮に外で飛ばすにしても特別な許可はいらないみたいです。
※実際には細かい規制は色々ありますので、詳しくは自分で調べてください。

 

使用方法

使用方法は以下のサイトを参考にしてください。

ポケット・ドローンを飛ばしてみる

飛ばし方以外にも色々と書いてあり、
私の記事よりも全然有益な気がしないでもないですw

 

ただ、チャイスケの記事の良いところは、
日本語の取扱説明書をアップしているところです!笑

他のサイトをいくつか見た感じ、
日本語の説明書を持っている人が少なそうでした。

なので、こちらに貼っておきますね。

 

操作は結構簡単で、
死ぬ気で頑張れば普通の一人暮らしの広さの家でも軽くなら飛ばせます。たぶん。

周りにぶつけて壊しても保証しませんが・・・笑

 

実際に飛ばしてみた感想!

近所の空き地みたいなところとか、
近くの公園で飛ばしてみても良かったのですが、

外は寒いですし、

ドローンが汚れるのも嫌ですし、

公園で飛ばして良いかどうか調べるのも億劫ですし、

外が寒いですし、

という理由から、家の中で飛ばしてみました。

↑離陸直前のカメラ写真w

そして、ドローンの楽しみといえば、
主に以下の2点なのかなと思いますが、

飛ばす楽しさ☆
∟子どもがラジコンを好きみたいなことですね。
写真や動画を撮れる

上記については両方とも大満足でした!

家の中しか飛ばしてないので楽しい映像ではないですがw

ドローン撮影映像

こちらの映像↑を見ていただくとわかると思いますが、
ドローンの世界観を楽しむレベルであれば、画質は充分です。

 

操作も簡単ですし、
(頑張れば)お家でも飛ばすことができてお手軽です。
値段も5000円程度とそんなに高くありません。

新しいものに興味があるという方や、
ラジコンが好きだった方などは、
よかったら買ってみると良いかと思います。

 

ちなみに

クオッタという貸し借りアプリにて、
シェアリングエコノミーを実践しているので使ってみたい方は是非お問合せください。笑

「ドローン」で検索すると、
以下の商品が出てくると思います。

クオッタ | 貸し借りアプリ

 

お読みいただきありがとうございました!

ではでは!

【剣道】番外編:有効打突についての面白い考察

おはようございます。こんにちは。こんばんは!
メンサーのチャイスケです!

 

前回、以下のような記事を書きました。

剣道をアップデートする3つの方法

この記事を書くにあたり、
ネットで剣道について色々と情報収集していたところ、
「面白いな!」と思った記事を発見しましたので紹介します!

 


打突は物理判定か裁量判定か?

物理判定と裁量判定

このブログ↑では、
「物理判定」と「裁量判定」という言葉を使用しています。

・物理判定とは、物理的に測ることが可能な事象により判定することを指します。
・裁量判定とは、物理的に測ることができない事象を審判員が与えられた裁量の範囲内で判定することを指します。

そして、「打突」を「裁量判定」と分類し、以下のように言っています。

打突そのものの物理的接触や力の強弱よりも、打突機会および打突に至るまでのプロセスが重視されてこその剣道だと思うのです。
極論、日本剣道形の三本目のような、非接触打突も一本と判定できる余地を残しておくためにも、打突は裁量判定であるべきではないでしょうか。

つまり、非接触打突も一本と認めるということです。

 

チャイスケは今まで「打突」は接触を前提で考えていました。

違う意見もあるというのは斬新でしたし、
言っていることは一理あるなと思い、
改めて有効打突について考えるきっかけになりました。

ありがとうございます。

 

とはいえ、
打突は接触が前提という意見は変わっていないです(笑)

ここで勘違いしてほしくないのは、これは、
「打突」を完全に物理判定と捉えているわけではないということです。

「打突」は物理的に当たったことを前提として、裁量判定的な要素もある

ということです。

例えば、
(少なくとも現在の剣道では)打ちの強さなどは定量的に測ることができないため、
審判の裁量判定的な要素が入ってくることは否定できないです。

 

「打突」の定義

ブログ内では、
打突を裁量判定としている理由を、

剣道試合審判規則ならびに細則に「打突」についての定義が明記されていない

としています。

ただ、
剣道試合審判規則ならびに細則で「打突」を定義するってどうなんでしょう?

「打つこと」

とか、

「接触させること」

とか、もしくは、

「ある程度の強さで打つこと」

とか定義するのでしょうか?

・・・なんか間抜けな感じがしてしまいます。

「打突」って、
もう分解できない言葉
一般的に認知されている言葉
として扱っているのかな、とチャイスケは考えます。

その中で、
「打突」の物理的強さ
「打突」にいたるプロセス的ななにか

など「打突の一部」を裁量的に判断する
ということなのかなと考えます。

 

また、有効打突の定義では、

竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し

と言っています。

仮に、「打突」を裁量判定としたところで、

例えば、「ヒジを打突」した場合に、
「打突部位を打突した」とはさすがに言えないと思います。

 

以上より、

「打突」は当たることを前提で考えていいのかなと考えています。

※甚之介さん、急にチャイスケというよくわからない人から反論がいってしまいすみません・・・笑

 

まとめ

チャイスケの意見をまとめておきます。

「打突」は、、、

物理的に当てることを前提として、
(打ちの強さなど)裁量判定的な要素もある

という意見です。

 

お読みいただきありがとうございました!

ではでは!