おはようございます。こんにちは。こんばんは。
メンサーのチャイスケです。
付き合う相手とは共通認識を作ろう
先程言ったように、「付き合う」の定義は曖昧だ。
付き合っていると言っておいてその定義が曖昧な状態であっては、関係がうまくいくとは思えない。
例えば浮気の基準は人によって違うだろう。
にもかかわらず、
多くのカップルは浮気の基準はナイーブな話題として話し合っていないのではないだろうか?
人が2人以上集まればそれは一種の社会だ。
社会を円滑に回していくには話し合いが必要だし、場合によってはルールが必要だ。
もちろん、細かいことまで全て話し合う必要はないし、
ルールは多すぎないほうが良いと思う。
ただ、大事なトピックについては話し合いやルール作りが必要だと考える。
(この辺を論理的に説明するのは難しいが、会社とかサークルとかいった組織で、話し合いをしたことがなかったりルールがない組織ってたぶんないだろう。)
そこで、付き合う相手とはしっかり話し合いをしたりルールを作ったりして、
自分たちが「付き合っている」ってどういう状態なのか、
や、
お互いにどういった関係を求めているか、
という共通認識を持つことが大切だと思うのだ。
・・・ふわっとした話になったが、簡単に言うと、、、
「言語化の文化」の人間になろう的なことである。(うん、ちょっと違うかもしれないが。)
「無言の文化」と「言語化の文化」については以下のブログを読んでほしい。
(『「無言の文化」と「言語化の文化」の対立』の部分だけ読めばわかるが、記事自体も面白いので時間がある人は是非読んでほしい。宣伝笑)
ぼくは村作りビジネスをやめる。そう決断するにいたった全経緯と教訓について
少し引用しよう。
この世の人間は、二種類に分けられる。「無言の文化」の住人と、「言語化の文化」の住人である。
以下、言語化の文化の人↓
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誰かに何かをして欲しいときは必ず「◯◯をして欲しい」と伝える
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相手が承諾してくれたら◯◯はされるものと認識する。
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その場合に◯◯されなかった場合は、相手を問い詰めたり責めることもある
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伝えそこねていた要望△△については、実行されなくても絶対に怒らない(「普通△△するでしょ!?」とは絶対に言わない)
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不確かな相手の要望については確認する(「□□した方がいい?」)
僕のコミュニケーションは、「人間の意思疎通は非常に困難だ」という前提に立っている。誰かの考えや感覚を類推することは生産的ではない、と思っている。また、不機嫌になることや怒りを持つことを最小にしようとしている。
↓こちらは無言の文化の人
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「相手は当然◯◯してしかるべきだ」と考える(言わない)
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◯◯されなかった場合に「なぜ◯◯しないのか?普通そうするのではないか?」と怒る
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「相手はきっと望んでいるから、自分は□□しなければならないのだろう」と考える(尋ねない)
-
自分は必死で□□しているのだから、お前も□□する人間であれ、と無言のうちに要求する
仕事中や友達に対しては言語化の文化の住人であっても、
「付き合っている相手」には無言の文化の住人になってしまうことがあるんだと思う。
実際、自分も付き合っている相手には相対的には無言の文化の住人になることが多いように思う。
仕事のように論理が占める領域が少ないこと、
(多くの場合)付き合っている相手は異性であること、
などがあるのでしょうがない部分もあるだろう。
しかし、「付き合う」ということになると、
途端に無言の文化の住人が増えてしまうため、
「付き合う」状態の共通認識がないまま付き合っている人が増える。
そしてその結果、社会一般的にも、「付き合う」という、
ナイーブかつ、ふわっとした定義である概念がはびこり、
多くの人が思考停止でその概念をふわっと使っているように感じる。
この辺りが、
「付き合う」という言葉へ気持ち悪さを感じてしまう要因なのかなと思う。
昔は問題が起こらなかった?
もしかしたら昔は「付き合いましょう」⇒「はい」でも問題なかったかもしれない。
多くの国民の共通認識として、
・有名大学に通い、有名企業に入るのが正解
・男は仕事をして、女は家のことをするのが当たり前
などなど、というような均一な価値観があった社会においては、
「付き合う」という定義自体が社会から与えられていた部分が今よりは大きかったと思うし、
また、定義が人によってぶれていなかったのだと思う。
最近では、そんな社会も変わってきている。
思考停止で今までのように、
「付き合う」という言葉に男女の関係(男女だけには限らないが)を押し込むのに気持ち悪さを感じている、今日このごろである。
お読みいただきありがとうございました。
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[…] 【後編】に続く […]